ヴェルディの生涯と作品
|
「ヴェルディの肖像」
ジョヴァンニ・ボルディーニGiovanni Boldini
1886年制作 |
ジュゼッペ・フォルトゥニーノ・フランチェスコ・ヴェルディGiuseppe Fortunino Francesco Verdiイタリア(1813-1901)
<はじめに>
ヴェルディVerdiイタリア(1813-1901)は、
ロマン派時代(1820-1900)に属する作曲家である。ヴェルディの功績は、彼の作品の90%を占めるオペラにおいてであった。改作を除くと正味26作のオペラを残した。そもそも
オペラはイタリアで
誕生し、イタリアの偉大な土壌の中で育ち、多くの名作オペラが生れていった。もちろん、オペラはフランス、ドイツ、イギリスなどにも伝わっていったが、ドイツに
ヴァーグナーWagnerドイツ(1813-83)が出現して反イタリア・オペラの道を歩んでも、オペラにおいてイタリアの地位は揺がなかったといえよう。こうした歴史の中で、ヴェルディのオペラが花開いたのも当然なのかもしれない。そしてヴェルディはイタリア・オペラ、いや、西洋のオペラの一つの頂点を築いた。それは、当時としてはやや形骸化していたイタリア・オペラを活性化させ、最高の高みに導く。ヴェルディはヴァーグナーから積極的に影響も受け、後期ロマン派へも歩みを向けるが、
同じ年に生まれたアルプス北向こうのヴァーグナーとは融和しがたい両極に並び立つ存在でもある。
<ミラノへの道>
ヴェルディは
1813年10月10日、北イタリアのパルマ県にある小都市ブッセートの郊外3kmの寒村レ・ロンコレで、行商人相手の飲食店兼宿屋
1)の長男として生まれた。レ・ロンコレは人家わずか数十戸の鍛冶を主とする小さな村であったが、古くからクレモナからパルマへ抜ける行商人や旅音楽師たちの交通の要衝であった。この時、まだイタリアは国家統一前で、7つの小さな王国に分かれていた。レ・ロンコレの地域はパルマ公国に属し、ナポレオン�Tのフランス第一帝政(1808-14)の支配下にあった。フランス領であったが、この年ナポレオンはロシアで敗北し、イタリア人もフランス軍として加わった。約2万7千のイタリア人もロシアに行き、帰って来たのはほんのわずかで、イタリア人以外も含めて2千人弱だったといわれている。ヴェルディが生まれた丁度10月10日は、ライプツィヒ諸国戦争が始まる日でもあった。だが、ナポレオン支配も終焉を迎えようとしていた。戦争は続き、たった一軒の飲食店兼宿屋しかない小さな寒村にも、ヴェルディが一歳になった1814年にオーストリア・ロシア軍がここまで攻めこんで来たのである。レ・ロンコレは寒村であっても重要な交通の要衝であったからである。盗み、略奪、暴行も横行し、しばしば母はヴェルディを連れて近くの洗礼を受けたサン・ミケーレ教会の鐘楼に隠れたといわれている。
ヴェルディ家が営む家業の宿屋という環境の中で育ったヴェルディは、立寄った旅音楽師の音楽を胎内にいた時から耳にしていた。そうしたヴァイオリンを弾く旅音楽師の一人でヴェルディの家を常宿にしていた
バガセットBagassetが、幼いヴェルディの素養を見抜いて、父に彼が音楽家の道を進むよう勧めたといわれている。後年ヴェルディが、老音楽師を捜し求めて報いたというエピソードも伝えられている。彼の一生を左右した人物であったといえる。
1821年7才の時、ヴェルディは村のサン・ミケーレ教会オルガニスト、
バイストロッキBaistrocchi(?-1821/23)に本格的な音楽の手ほどきを受けた。ヴェルディはただならぬ熱意ぶりだった。ついに両親は彼にひどい中古のがたがた状態のスピネット
2)をヴェルディに買い与えた。寝食を忘れて彼は弾き続けたという。またこの時彼の故郷はフランス領だったこともあり、小学校ではフランス語が使われていた。ヴェルディがイタリア語とフランス語のバイリングァルであったのはこのためである。
8才の時バイストロッキが死に教会オルガニストを務めたといわれている。10歳になった時、父は知人でもあるブッセートの雑貨と酒の卸商人
アントニオ・バレッツィAntonio Barezzi(1787-67)に相談する。小学校を終えた息子の行く末を考えてのことであった。音楽愛好家であるバレッツィはヴェルディの能力を見抜き、ブッセートで勉強するよう勧めた。バレッツィはこの町の名望家で――後にヴェルディは彼の娘と結婚する――、彼はヴェルディの恩人としての役割を死ぬまで果すことになる。ヴェルディ・オペラには特有の役廻しや特性表す
ヴェルディ・バリトンが彼のオペラに登場するようになるが、この存在の根源たる存在がこの
バレッツィであると考えられている。彼は長く終生、ヴェルディに目をかけ続けた父のような存在となっていくのである。
こうしてヴェルディは靴職人プニャッタの家に下宿してブッセートの中学校に通うようになる。下宿代の半額を得るために生家のあるレ・ロンコレのサン・ミケーレ教会のオルガニストも務め続けたのである。
1825年13歳の時からバレッツィは、ヴェルディにブッセート市立音楽院院長でありブッセート大聖堂楽長
(合唱長・オルガニスト)であるすぐれた音楽家であった
プロヴェーシ(1770-1833)に指導を受けさせた。
1826年から最初の作品を書き始め、ブッセートの楽友協会のメンバーが集まるバレッツィ家に頻繁に通い始めた。ここでやっと本物のピアノに触れることができ、一日中入り浸るようになる。この厚遇に報いるためにバレッツィの商いの手伝い、つまり会計を手伝うことになる。帳簿をつけたり、請求書の発送もする。またバレッツィ家の長女
マルゲリータ・バレッツィMargeherita Barezzi(1814-40)に歌とピアノを教えた。彼女はやさしくおとなしい内気な娘で、彼に惹かれていき、彼も同様であった。
1831年、ブッセートでは強盗が頻繁に起こり、バレッツィの妻はヴェルディにバレッツィの家に部屋の提供を申し出たので、靴職人プニャッタの下宿から引っ越した。ヴェルディの音楽の勉強も好調に進み、またますますバレッツィの信望も得ていく。そしてバレッツィはミラノ音楽院入学のために、奨学金の申請や手続きを取り計った。次の年の
1832年に奨学金は認可され、マルゲリータに思いを残し、いや彼女の思いの方がはるかに強かったが、6月22日にミラノに着いた。しかし、ミラノ音楽院の
入学試験は不合格となる。入学の定員はわずかだし、年令制限も超えていたし――14才以下が入学資格、彼は18歳だった――、特別な資質も見出されなかったとされている。不合格は年令のためであったと伝えられてもいるが、実際はピアノと対位法の能力の不足であったようである。
その後、ミラノに移ったヴェルディは、
ラヴィーニャLavigna(1766-1836)の所へ個人レッスンに通い始め、作曲家としての教育を受けることになった。ラヴィーニャは有名なオペラ作曲家で、以前はミラノ音楽院のソルフェージュの教師と、スカラ座の歌手の指導とチェンバロ奏者を務めていた。特にヴェルディに対位法技法をしっかりと教え込んだ。明けても暮れてもカノンとフーガばかりだったとか。パイジェッロPaisiello(1740-1816)の崇拝者ラヴィーニャから得るものが無かったとされているが、後期になって書く「弦楽四重奏曲ホ短調」、「聖歌四編」やオペラ「ファルスタッフ」などにおいて大いにその成果が発揮されることになる。ヴェルディは何度かはスカラ座に通った。しかし、スカラ座で上演されるプログラムは、
ドニゼッティ(1797-1848)とメルカダンテ(1795-1870)のオペラが多く、彼が聴きたかった
ベッリーニ(1801-35)はほとんど無く、
ロッシーニ(1792-1868)も少しだけで、外国のオペラは皆無だったという。
そうした時、かねてより愛し合っていた
バレッツィの長女マルゲリータとヴェルディは、
1836年4月16日に結婚届をブッセートの役所に出す。その19日後に質素な結婚式が行われた。ヴェルディはその年2月にブッセートの聖バルトロメオ大聖堂楽長と市の音楽教師に任命されていたし、ブッセートに居を構えることができた。しかし、ヴェルディの給料はわずかなので義父バレッツィから援助を受けることになった。ヴェルディの市の音楽教師の仕事も始まり、週に5日間、チェンバロ、ピアノ、オルガン、歌唱、対位法、作曲法を教えた。
1837年3月長女ヴィルジニャ・マリア・ルイジアVirginia Maria Luigia(1837-38)が誕生した。9月にバレッツィに借金して学校の休暇を利用して60日間だけミラノへ行って滞在した。
1838年7月長男イチリオ・ロマーノ・カルロ・アントニオIcilio Romano Carlo Antonio(1838-39)を得たが、
長女ヴィルジニャ・マリア・ルイジアは1年4ヶ月で失った
(1838年8月)。彼はブッセートでの仕事を辞職することにした。
| 1840年撮影 |
 |
1839年2月6日に妻と長男を伴い、ミラノへ移住した。
長男が1年2ヶ月で病魔に奪われてしまう(1839年10月)。11月にスカラ座でヴェルディの
第1作オペラ「サン・ボニファーチョの伯爵オベルト」を初演し、それなりの評価を受けた。
1840年スカラ座から新作の委嘱を受けたが、作曲を始めて数週間して貧しさの苦労のうち、
最愛の妻マルゲリータを1840年6月に失った。悲嘆の中で作曲を続け、
9月に
第2作の
オペラ・ブッファ「一日だけの王様Un girono di regno」の初演を迎えたが、
惨憺たる失敗と不評を味わった。
1841年のある日、ミラノで人生どん底の極貧状態でしかも孤独な生活をしていたヴェルディに、スカラ座劇場支配人メレッリが、一つの台本をヴェルディの外套のポケットに押し込んだ、といわれている。
この時メレッリは、
ジュゼッピーナを伴っていたと伝えられている。
その台本は
第3作となるオペラ「ナブッコ」(1842年初演、旧約聖書を素材にしている)であった。「ナブッコ」の物語がオーストリアの支配下にあったミラノの人々の心を捉え、沸かせたのであった、文字通りの
大成功を収めたのであった。これによって本格的なオペラ作曲家としての名声を得る第一歩となった。オーストリア検閲当局はこのオペラを革命を扇動する危険な作品とし、いくつかの場面を削除させようとしたが、ヴェルディは断固として拒否した強者であった。
[注]
1) 父はカルロ・ヴェルディ(1785-67)、母はルイジャ・ウッティーニ(1787-51)、母は1805年にピアチェンツァから嫁いで来た。この二人が営む飲食店兼宿屋は、現在でもイタリアや他のヨーロッパの国々でも見られるバールbarとレストランが階下にあって上階に部屋をもつ安価なホテルで、アルベルゴAlbergoといわれるものである。
2) スピネットspinettaイタリア語、spinet英語、épinetteフランス語、Spinettドイツ語は、通常一段鍵盤の小型チェンバロcembaloイタリア語の一種である。15世紀ヴェネツィアでスピネッティG.Spinettiが考案したのでこの名がある。音域は普通4オクターヴ半しかない。
<他の都市での活躍>
ヴェネツィアのフェニーチェ劇場の依頼で
第5作オペラ「エルナーニ」を完成し、初演する
(1844年)。このユゴーのこの原作は、パリでも賛否両論を引き起したロマン主義戯曲であった。これがヴェルディのユゴーとの最初の結びつきであり、ヴェルディの新しい劇的表現の開拓となった。それ以前のオペラには見られなかったドラマとしての有機的な統一を計り、音楽とドラマの内容を密接に結びつけた。それまでは、一つ一つの歌が、感情の凝集となって爆発するというようなやり方であった。以後、ローマでは
6作目オペラ「二人のフォスカリ」(1844年11月3日アルジェンティーナ劇場初演)、ミラノ、ヴェネツィア、ナポリのために相次いで書かれたが、それ以上の新しい進展は見られず、ヴェルディ自身“苦役の年月”と呼んでいた。リューマチの発作と胃の痛みにも悩まされていたのである。
第10作オペラ「マクベス」(1847年フィレンツェ、ベルゴラ劇場初演)で、初めて
シェークスピア(1564-1616)に挑戦する。シェークスピアは彼の深く尊敬する作家で、「リア王」、「テンペスト」、「ハムレット」についても晩年までオペラ化する望みをもっていた。
オペラ「マクベス」において、より人間の深層心理の表現に彼の音楽が向った点は注目すべきことであった。マクベスとその夫人の異常な人物像は、従来のオペラに現れる典型的な人物像ではない。この人物に対して劇的で性格的な新しい表現法をヴェルディは見い出していく。これは
モンテヴェルディ以後200年間、イタリア・オペラが忘れ去っていたことであったといえよう。
第11作「群盗」(1847年ロンドン、クイーン劇場初演)以後、1年少しパリにとどまった
(1847年冬-48年12月20日)。この時、パリ、オペラ座からの要請で旧作
第4作オペラ「十字軍のロンバルディア人」(1843年ミラノ初演)を改作してイタリア語からフランス語版とした。題名も
「エルサレム」(1847年11月26日パリ初演)となり、
フランス・オペラ、しかも
グランド・オペラとして形を変えたのである。これが大成功を収めたことは意義深く、この
1847年には
第11作目オペラ「群盗」がロンドンで初演され、
「エルサレム」がパリ、オペラ座で上演され、ヴェルディの国際化の始まりとなる。
こうした1847年にオペラ歌手を引退し、パリで生活していた
ジュゼッピーナと
再会する。そして二人に愛が育まれていく。彼女は2年以上前から舞台から遠ざかり、パリに住んでいた。声楽を教えたり、演奏会も行っていた。プログラムの曲の殆どがヴェルディのオペラのアリアだったという。二人はパリで愛を確かなものとし、ヴェルディは二度目の人生の伴侶をジュゼッピーナ・ストレッポーニと決めたようだ。ヴェルディが幸せなパリ滞在時に、2月革命
(1848年2月22-24日)が起こり、国王ルイ・フィリップ
(在位1830-48年)は退位させられイギリスに追放される。3月13日にはオーストリア首相メッテルニヒが辞任し、イタリアの
リソルジメント運動家たちは浮き立っていた。
ヴェルデイは
1845年にヴェルディは、ブッセートに家Palazzo Orlandi――当時はPalazzo Cavalliと呼ばれていた――を購入し、
1948年にブッセートの近郊サンターガタに地所を購入し、農地と元からあった農家を徐々に大きな邸宅Villa Verdiにしていく。
2月革命後、イタリアでもイタリア統一をめざす
リソルジメント運動などヨーロッパ中が動いていた。こうした中ジュゼッピーナと共にパリ郊外パッシーへ居を移して、落ち着いた生活を送る。時々劇場にも出かけ新しいオペラを観た。彼にとって
ヴァーグナーはまだ目の中に無かった。フランスで活躍する
マイヤベーアMayerbeerドイツ(1791-1864)には注目し、批判も感じていた。新しい世界に眼差しを向け始めている。この頃バイロン原作による
第12作目オペラ「海賊」を作曲する。これは2年前に興味を引かれたものの、放ってあったものだった。
1848年2月12日完成した。10月25日トリエステのグランデ劇場で初演したが、完全な失敗で終わる。
パリ滞在(1847年冬-48年12月20日)後、ヴェルディとジュゼッピーナの二人は連れだってイタリアに帰り、ブッセートに住んだ。閉鎖的なブッセートの口さがない連中にはこの二人の婚姻を伴わない同棲生活は受入れられないもので、人々のうわさの種になった。ジュゼッピーナにとっては大きな苦しみとなる。そして広大な土地を購入してあったサンターガタに移った。
「海賊」(1848年初演)の後に作曲した
第13作目オペラ「レニャーノの戦い」(1849年12月8日ローマ、アルジェンティーナ劇場初演)は、熱狂的な歓迎を受け、
第14作目オペラ「ルイザ・ミラー」(1849年12月8日ナポリ、サン・カルロ劇場初演)では新生面を開拓がみられ、
レチタチーヴォにおける旋律や管弦楽書法の面で進展させている。
第15作目オペラ「スティッフェリオ」(1850年トリエステ、グランデ劇場初演)は失敗に終わった。
こうして苦労多きヴェルディの
前期のオペラ時代を終えることになったのである。
<中期の名作と再婚>
前期でのさまざまな経験を経て、ヴェルディ固有のオペラの道を見出したのは
中期(1851-69)からだった。それは
「リゴレット」、
「イル・トロヴァトーレ」、
「ラ・トラヴィアータ(椿姫)」から始まる。これらの3作は
前期の
「マクベス」に続く心理の表出をさらに進め、中和された異形の真実を求めたオペラであった。いずれもオペラとしては全く新しい題材であり、ともにその中に人間の真実を表現する音楽作りに貫かれている。そして音楽を声の技巧のためではなく、劇展開に一致し効果をもたらす音楽を考えた。そうしたヴェルディの意図が徹底するにつれ、彼の音楽はますます劇的表現に満ちたものなり、管弦楽の担う役割も増していく。従来の
声の分類による定型とその役割も広げられていくのであった。
その後
フランス・オペラ「シチリアの晩鐘」(1855年パリ初演:フランス語版)と失敗作と言われる
「シモン・ボッカネグラ」(1857年初演)を経て3つの力作を生むことになる。それは
「仮面舞踏会」(1859年初演)、
「運命の力」(1862年初演)、
「ドン・カルロス」(1867年初演:フランス語版)である。特に
「仮面舞踏会」は、
イタリア統一と独立――イタリア国家統一運動Risorgimento――を目指そうとオーストリアに宣戦布告をしようとしている時期でもあり、このオペラはイタリア人の希望の役割を果した。音楽的な観点で捉えてもこれほど新しい書法と形式への意欲を示した作品は、それまでの彼のオペラには無かった。意識的に旋律を否定的に扱い、声楽と管弦楽を結合する厳格さを求め、それはより簡潔さの中で音を造形するというものだった。また旋律や音型に
示導動機Leitmotivへの近づきがみられ、ヴァーグナーの音楽論に決して無関心ではなかったことが示されている。
1859年8月29日にヴェルディ(46歳)とジュゼッピーナ(44歳)は、やっと結婚式を挙げた。10年におよぶ長い同棲生活にピリオドを打ったのである。1861年にトリノに召集された国会の下院議員に選ばれ、この議会はついに待望のイタリア王国の成立を宣言した。最初の妻の父であり援護者のバレッツィは1867年に死亡、またコンビの台本作者ピアーヴェも世を去った。1968年に
ロッシーニRossiniイタリア(1792-1868)がパリで亡くなった。この時ヴェルディは、イタリアの14人の作曲家との共作でレクイエムの作曲を計画し、ヴェルディは
「リベラ・メ」を作曲した。結局この計画は13人によって仕上げられたが
(1869年9月全曲完成)、その時上演は実現しなかった。初演はなんと
1988年ドイツにおいてであった。
1873年5月22日、88歳の文豪マンゾーニの死に際してヴェルディは独自の
「レクイエム」(1874年作曲、初演)を作曲した。これにすでに作曲していた
「リベラ・メ」をそのまま取込むことになる。
| c.1870年頃、撮影 |
 |
<後期のオペラと死>
後期(1871-94)の
「アイーダ」(1871年作曲)は、スエズ運河開通を記念して建てられたカイロのオペラ劇場のこけら落としのために委嘱された。だが、実際は
1869年11月6日オペラ劇場こけら落としには既作オペラ
「リゴレット」が当てられた。だが
1871年12月24日、「アイーダ」は、ついにカイロ、オペラ劇場で初演された。ヴェルディの
グランド・オペラ様式と劇的表現の絶頂を示す作品となった。ヴェルディはこの「アイーダ」を最後に
番号オペラと決別することになる。
ヴァーグナーの
通作書法をとるようになった。確かにヴァーグナーの影響を受けた。しかし、そ反面ヴェルディは、オペラ誕生期の
ペーリ(1561-1633)のオペラの伝統のみでなく、ルネサンスのパレストリーナ(c.1525-94)やバロックのマルチェッロ(1669-1747)の伝統をも継承したとも考えられる。そのような流れの過程で
「弦楽四重奏曲ホ短調」(1873年)が作曲された。
「アイーダ」から約16年後に
「オテッロ」(1887年初演)を生み出し、歴史的な成功を収めた。このオペラにおいて今までのイタリア・オペラになかったような人の声と管弦楽は完全な一体化を見せ、生き生きとしたドラマを展開された、と評価されている。
レチタティーヴォと
アリアの区別もなく、それまで伝統的だった
ナンバー区分もなく、全体が起承転結となる構成をもっている。
さらにヴェルディは80才の高齢になろうとする時に
「ファルスタッフ」(1893年初演)を完成する。ヴェルディにとって
第2作目の「1日だけの王様(にせのスタニスラオ)」(1840年初演)とこの
「ファルスタッフ」の2作のみのがオペラ・ブッファであった。さらに今回も
「オテッロ」につづいてシエークスピアの原作によるボーイトの台本である。シェークスピアの「ウィンザーの陽気な女房たち」と「ヘンリー四世」を下敷きにしたもので、ヴェルディ待望の喜劇の題材、
オペラ・ブッファとなった。筆者の一つの考えであるが、「ファルスタッフ」は大いに笑って観るオペラ・ブッファとは性格を異にしている。シエークスピアの原作のように笑えない。ヴェルディ自身自体がユーモア精神に欠けているからだろうか。音楽面では
「オテッロ」を上回る声と管弦楽の一体化が見られる。だがこのオペラの真価を筆者はまだ理解できないでいる。正直に言えば楽しめないのである。今後の論が待たれるオペラであろう。
1896年にヴェルディ最後の
オペラopera=
仕事・
作品となる
音楽家の憩いの家の設計図ができた。100人の退役音楽家を収容出来る3階建ての美しい建物である。
1897年秋、
ジュゼッピーナはサンターガタで気管支炎がもとで臥せた。ジェノヴァに移るが肺炎を引き起こし、11月14日に
死去した。ブッセートの大聖堂で葬儀が行われ、ミラノの記念墓地に埋葬された。
1898年にパリの演奏会で初演された
「聖歌四編」は、彼のバロック的合唱書法と対位法技法の粋を示している。より古いイタリアの
多声音楽の憧憬さえ伺える。
1901年1月21日にヴェルディはミラノのホテル・グランデで卒中のため倒れた。
1月27日午前2時50分87才のヴェルディは、ホテルの部屋で
息を引き取った。30日早朝にミラノ記念墓地に埋葬された。2月1日にヴェルディの栄誉を讃える大演奏会をトスカニーニの指揮により開催される。2月27日午前8時、ヴェルディ夫妻の遺体は、彼が私財を投げ打って建設した
音楽家の憩いの家の墓所に移された。その道中では全世界の各団体から巨匠を送る30万人の人々が集り、トスカニーニの指揮による8000人の合唱団がくり広げる
「ナブッコ」第3部第2場「わが思いよ、金色の翼に乗って行け」の中をヴェルディ夫妻の遺体は運ばれ、
音楽家の憩いの家の墓所に埋葬されたのであった。
ヴェルディの遺産は705万リラと計上され、死の前年ブッセートで作られた遺書に従って整理された。半分を晩年可愛がり養女にした
マリア・カラーラに贈られた。マリアはヴェルディの叔父の遺児であり、カラーラと結婚してサンターガタで一緒に暮らしていたカラーラ夫妻が、ヴェルディの最後を看取った。遺産の残りは、使用人、親戚などにも若干贈り、ジェノヴァの慈善団体、ヴィラノーヴァの病院、それに若い時ヴェルディを育んだモンティ・ディ・ピエタ奨学資金などに贈られた。さらにヴェルディの印税収入が、「音楽家の憩いの家」に入るようにされた。その他彼が施した慈善事業は多数ある。
ヴェルディは常に野人をよそおう偽悪家であった。人には自分は音楽のことは何も知らないというのが常であった。これは正規の音楽教育を音楽院で受けなかったというコンプレックスが最後まで潜在していたのであろうか、自分の事を低く卑しめていう癖があった。その反面、誇りと自信に満ちていて、自己の価値を充分に自覚していた。彼の図書室を見ると、大音楽家も二流音楽家のスコア楽譜が多く所蔵されていた。
ヴァーグナーの「
ローエングリーン」、「
トリスタンとイゾルデ」、「ニュルンベルクのマイスタージンガー」、「
ヴァルキューレ」、「
パルジファル」の楽譜には書き込みをしながら勉強した形跡がられる。さらに
ベルリオーズ、
ビゼー、
ドヴォルシャーク、
スメタナ、
マスネのもある。これ等を見ると当時のヨーロッパのオペラ作品事情を広く集め、得ていたと思われる。こうしたヴェルディの研究心は、生前中には誰にも知られることもなかったことであった。
<ヴェルディのオペラ>
[前期のオペラ]
ヴェルディのオペラ作品を3つの時期に分けることができる。
前期の15作のオペラ(フランス語版の「エルサレム」を除く)の題材は、愛国的内容で、純文学への傾きもみせている。前期のオペラは以下の通りである。