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オペラ「オテッロ Otello」


 ジュゼッペ・フォルトゥニーノ・フランチェスコ・ヴェルディGiuseppe Fortunino Francesco Verdiイタリア(1813-1901)




<「アイーダ」から「オテッロ」までのヴェルディ>


 ヴェルディイタリア(1813-1901)は、アイーダ(1871年初演・58歳)から「オテッロ」(1887年初演・73歳)まで約15年以上のオペラ作曲の空白を置いている。つまりこの期間は新作オペラを作曲していないのである。ヴェルディ・オペラの最終的な発展を前にしての長い準備の沈黙だったのだろう。しかし、この期間、新作オペラこそ生み出してはいないが、2つのオペラの改訂とオペラ以外の重要な2作品を作曲した。

 イタリア以外での「アイーダ」初演の権利をめぐって、ベルリンとヴァイマールとヴィーンが争っていた間、ヴェルディは、1872年12月、ナポリでドン・カルロス(改訂前のフランス語版の演出をしている。しかし、公演中エリザベト役のストルツが途中で病気になり、大成功にも関わらず中止となってしまった。この時、意外にもヴェルディはナポリを楽しんだようだ。それを示す証しは、1873年1月にヴェルディ唯一の室内楽作品である弦楽四重奏曲ホ短調1873年作曲初演作曲である。またオペラ上演中止が無かったら、この作品も生まれなかったかもしれない。そして彼自身もその出来に満足していたという。4楽章構成のロマン派中期を位置づける堂々たる作品である。この作品によって我々は、ヴェルディが偉大なるイタリア音楽の伝統を踏襲する音楽家であることを知るのである。また他にもう一つ幸せなナポリの産物もあった。それはヴィンチェンツォ・ジェミートVincenzo Gemitoイタリア(1852-1929)という彫刻家志望の21歳位の青年がヴェルディの前に現れた。その青年のたっての希望でヴェルディの胸像制作(1873年)が行われた。そのできばえにヴェルディは驚き、満足したという。これは今も伝えられ、近代彫刻の名作と認めてよいものであろう。妻ジュゼッピーナのも合わせて作らせた。

ジェミート1873年制作 「ヴェルディ ジェミート1873年制作 「ジュゼッピーナ 
 



 快復したストルツによる「アイーダ」がナポリのサン・カルロ劇場で上演され、大成功を収めた。ヴェルディは幸せを味わいながら1873年4月1日弦楽四重奏曲ホ短調がホテルのホールで、8人ほどの友人の前で初演された。

 1873年4月にヴェルディ夫妻はナポリからサンターガタに帰るが、この時、長年の友人であり、台本作家ピアーヴェの病状をピアーヴェの妻の手紙で知る。彼はヴェルディのオペラ10作の台本を受持ち、ヴェルディの専制君主のようなやり方に耐え抜いた人である。そうした時、マンゾーニの健康状態の悪いことも知り、ヴェルディは不安な精神状態で過す。マンゾーニはこの年1873年1月に教会に行く途中、倒れて石段で頭を打ち、植物状態になってしまう。

 1873年5月22日、88歳の文豪マンゾーニ亡くなる。ヴェルディにとってマンゾーニは特別の存在で、ヴェルディにとって生存する人間の中で唯一の尊敬する人物と言ってよかった。彼の思い入れは特別で、葬儀には参列する力もわかず、しばらく経って後ミラノの墓地に秘かに誰にも知られず詣でている。そうした中でマンゾーニのためにレクイエムを作曲したいと考えるようになる。オペラを作曲するのとは違った思いから作曲を思い立ったのである。マンゾーニの死を契機に、自分自身の死の問題を見つめ直そうととしたのだろうか。彼には聖職者嫌いの傾向があったが、信仰がなかったわけではない。子供時代の屈折が残存していたのであるミサの侍者をしていた時、オルガンの音に気を奪われ為すべき行動を失念してしまった。注意を即するため司祭に足を蹴られたという体験が伝えられている。これ以来、聖職者嫌いになったとか。マンゾーニの死を契機に自己の信仰を、音楽で表そうとしたと思われる。
          
 こうしてレクイエム(1874年作曲初演)は、アイーダから「オテッロ」に移る間の最重要作品となる。一般にレクイエムは、ローマ・カトリック教会における<死者のためのミサ典礼>である。音楽作品としての「レクイエム」は、<死者に祈るミサ曲>である。ヴェルディはすでに人間の共通のテーマである死の問題を考える年令にもなっていた。ヴェルディの心に結びつく「レクイエム」は、先例としてはモーツアルトの「レクイエム」にしか見い出せなかった、と述べたとか。また「レクイエム」の前後に作られた2つのオペラ、「アイーダ」「オテッロ」の共通のテーマは愛と死であるが、この2つのオペラは異なる愛の形を具象化している。




ボーイトとの出会い>


 「オテッロ」の台本を担当することになるアッリーゴ・ボーイトArrigo Boitoイタリア(1842-1918)との
出会いは、ヴェルディにとってたいへん重要なことであった。二人の最初の出会いは、1862年パリであった。この年ロンドンの万国博覧会のためにボーイトが「諸国民の賛歌」を作詞し、ヴェルディが作曲した。この作品はテノール独唱、合唱と管弦楽のカンタータで、後半に次の3つの国歌が引用されている。それはイギリス国歌「ゴッド・セイヴ・ザ・クィーン」、フランス国歌「ラ・マルセイエーズ」、イタリア国歌「マメーリの賛歌」(当時はまだ国歌ではなく、1946年に国歌に正式制定された)であった。この制作過程でボーイトとヴェルディの二人は顔を合わしてはいる。だがこの時の出会いは、二人にとって特別なことにはならなかった。運命的な出会いとなるには1879年まで待たなければならない。

 さて、ボーイトは、ミラノ音楽院で学んだ作曲家で詩人でもある。ヴェルディとは29歳差があり、晩年のヴェルディとボーイトの出会いは、モーツァルトダ・ポンテリヒャルト・シュトラウスホフマンスタールの出会いに匹敵する、いやそれ以上のものだったと言えるだろう。つまりヴェルディが、オペラの新境地を開く力となった存在であったのである。

 ボーイトは、作曲家、詩人として多分野に活躍するが、どの領域でも決定的な到達点には達しなかった。彼がここで新しく見つけた道は、老大家ヴェルディの忠言者になることであり、ヴェルディからも大きな力を得ていくのである。
 ボーイトのダンテやシェークスピアについての知識は、並外れたものであった。そのすべてがヴェルディに注ぎ込まれることになる。特にシェークスピア戯曲は、この二人のオペラ制作の重要な存在であり、二人の共通の目標でもあった。


 ボーイトはかってヴァーグナーに心酔していた。このこともあってドイツのロマン派芸術に通じ、さらにイタリアとフランスのロマン派の芸術にも通じてもいた。ドイツのロマン派は、シェークスピアをロマン主義の根源的存在の一人として捉えていた。さらにボーイトはかって、1860年頃にミラノに現れた革新運動=スカピリアトゥーラScapigliaturaのメンバー、スカピリアーティScapigliatiの中心的人物の一人であった。彼らはボードレールの「悪の華」(1857年出版)を指針として、ミュセやバイロン、そしてフランスでは過去の人であったユゴーを予言者にし、ヴェルディが崇拝するマンゾーニを否定していた。ボーイトは、後のヴェリスモ主義グループの中心になるヴェルガと決闘するというような事件も起している。それはカフェでロッシーニの「ウィリアム・テル」とマイヤベーアの「ディノラ」の序曲の価値と意味についての音楽論争が、原因となったのである。これはスカピリアーティの特徴をよく示していた。

 当時のボーイトは、ロッシーニドニゼッティベッリーニをイタリア・オペラの最高峰と評価し、この3人の伝統につながるヴェルディのことを否定的に捉え、ヴェルディを単に模倣的作曲家と見なし軽視していた。ボーイトはミラノの世界的音楽出版者でヴェルディの後ろ楯でもあったティト・リコルディ(1811-88)に、ヴェルディ否定を告げていた。またこのことをリコルディからヴェルディは聞き、知ってもいたのであった。おもしろいことにボーイトの考えをヴェルディは、理解してもいたのである。なかでもイタリア・オペラの課題については、同意見でもあった。それは和声の可能性を根本的に拡大し、管弦楽法を充実させなくてはならないという点であった。しかし、このことはヴェルディも目指していたのであった。この内容をすでにアイーダ(1870年完成)で実践し、さらにヴァーグナーの価値をも認め、ヴァーグナーのスコアを研究したり、音楽論を読んだりもしていた。一方、ヴァーグナーの方は、イタリア・オペラについて論述する音楽論においてなぜかヴェルディについては一切論及していない。ロッシーニ、ベッリーニ、ドニゼッティの名は挙げてもである。ヴァーグナーはヴェルディのことを特別な意識をもっていた、と推測できるのである。

 1868年ボーイトは、ヴァーグナーの影響を強く受けたゲーテ原作のオペラ「メフィストフェーレをスカラ座で初演した。だが、聴衆から受入れられず惨憺たる結果となった。1875年10月4日、ボローニャで再構成された改訂版が上演された。首尾は悪くはなかったのである。このオペラはヴェルディに先駆けて従来の伝統であった番号オペラの書法を廃したものである。ヴァーグナーの影響による自由な転調や管弦楽法を用いている。1871年、ボーイトはヴァーグナーからの手紙「あるイタリア人の友に」を受けとる。だが、これを契機にヴァーグナーヴァーグナー主義に反発するようになってしまったのである。ヴァーグナーのドラマが目的で、音楽は手段に過ぎないという考えを覆し、ドラマが音楽に従属するという命題を、ボーイトは掲げるようになる。そしていよいよヴェルディと向き合う時期が熟し、迫っていたのであった。

 1879年6月29日スカラ座で、ティト・リコルディの子ジュリオ・リコルディ(1840-1912)に依頼され、洪水の犠牲者のためにボーイトヴェルディの「レクイエム」の指揮をした。この数日後の晩、リコルディは、ヴェルディ夫妻やミラノの何人かの友人たちと食事をしながら、シェークスピアの「オテッロ」のことを意図的に話題に出したのである。さらにリコルディの策略は続く。その翌日、リコルディはフランコ・ファッチオ(「オテッロ」初演の指揮者となる)アッリーゴ・ボーイトをヴェルディの所へさし向けた。かってのスカピリアーティの二人だったが、ボーイトが書いた「オテッロ」のオペラ化の計画と台本草稿を携えていた。この時、ヴェルディ自身はまだ何もまだ興味を示さなかったし、考えを表さなかった。この当時、彼は農場主になり切っていて、他のことには興味がないふりをし、また時間も無い様子を示していた。以後、リコルディからも「オテッロ」のオペラ化を何度か勧められても、リコルディにやんわりと断っている。この時ヴェルディはレクイエムを最後の作品と考えていたのか。しかし、1879年から1880年ダンテの「神曲」<天国編>からをテキストにした「主の祈りPater noster」を作曲した――5部合唱 1880年作曲、4月18日スカラ座初演――。




<台本と作曲


 ヴェルディは1879年11月から「オテッロ」の台本草稿を手元に置いていたが、まだ決心がつかずにいた。こうした時、ボーイトとの最初の共同作業を始めたのであった。それは「オテッロ」でなく、シモン・ボッカネグラ改訂することであった――1881年3月24日改訂版が上演――。ヴェルディは「シモン・ボッカネグラ」のタイトル・ロールのために、フランスのすぐれたバリトン歌手ヴィクトル・モレルを起用する。このことが「オテッロ」の作曲へと近づかせたようである。このモレルが「オテッロ」のイアーゴを歌うことになるからである。こうしたボーイトとの共同作業は、「オテッロ」制作へと近づけていく。廻りの人々はかなりじらされて待っていたのに、ヴェルディはまだ「オテッロ」のことを一言も口に出さない。また誰もが「オテッロ」のことを言うことを故意に控えていたのであった。

 ついに1881年ボーイトは以前にも増してヴェルディに「オテッロ」の作曲をすすめた。この時ヴェルディはやっと時が満ちたことを感じたのか、とりわけイアーゴ像について自分の意見を述べ始めたという。かくしてボーイトと台本の練り上げ作業を始める。やっとヴェルディは本腰を入れた。だが、いつが本格的な作曲の開始だったかは、今となっては分からないのである。


ボーイトとヴェルディ



 1883年2月13日、ヴェネツィアでヴァーグナーが死ぬ。ヴェルディは深く悲しみ、その名は芸術史上に深く刻まれると言った。1884年3月、ボーイトは外部にはヴェルディの「オテッロ」の作曲は続けられていると述べ、本人がそれを秘密にするようにと望んでいる、と人に告げている。しかし、作曲の中断もあった。それは1884年1月20日、改訂版「ドン・カルロイタリア語版をスカラ座で上演したからである。主役ドン・カルロをフランチェスコ・タマニョが歌った。そしてこのタマーニョが初演のオテッロを歌うことになる。彼の歌唱は後のオテッロ役の規範となった。

 こうして徐々にではあるが、運命の糸はたぐり寄せられていく。改訂版「ドン・カルロ」から20ヶ月後の1885年10月5日に、「オテッロ」第4幕一応完成させた。この悲劇作品の終幕は、最もヴェルディの気になる箇所であった。ボーイトとはこの第4幕について最も論を戦わせたし、考え抜いた箇所である。

 1885年10月から1886年11月までの1年間は、推敲と改訂を繰り返し、入念なオーケストレーション作業で過ぎていった。ヴェルディは1886年11月1日「オテッロ」を完成したとジュリオ・リコルディに知らせている。スコアの紛失を恐れ、フィオレンツォーラまで直接取りに誰かをよこすよう頼んでいる。5年を越える制作73歳を迎えたヴェルディは、神経質になったのだろうか。そしてその後はいつものように商人顔負けの細かい契約に入り、細かい手続きを交している。またヴェルディはリハーサルにも立ち合い、舞台と演奏にたいへん細かな指示を出した。自らも舞台に立ち、演じて見せたりもする。




<初演と反響>



 1887年2月5日、ヴェルディの新作「オテッロ」ミラノ・スカラ座で初演され、大喝采を得た。実にアイーダから15年ぶりの新作上演であった。台本を手にしてから実に7年が経っている。この時ヴェルディは74歳で、本人も聴衆にも予期せぬことだっただろう。自他共にヴェルディの創作は、レクイエムで終ってしまったと思っていたからである。「オテッロ」に対する一般的な賛辞はお座なりで、真の意味での新しい世界というものを理解できない人が多かったのである。ヴェルディ自身が、最も冷めた批判者だったようだ。長年求め続けていたシェークスピアの世界は、「マクベス」以来すでに40年が経っていた。人間の真実の姿をオペラで描きたいと追求してきた帰結となった。

 「オテッロ」の音楽はヴァーグナーの言う“未来の音楽”でもない。かといってヴェリスモ主義でもない。大地と共に生活した農民が悟り得たものと、敢えてヴェルディ流に言わせていただこう。大地と人間に根ざして得た知恵は、強くて説得力がある。ヴェルディの表現はそのような質を有している。そういえば音楽の概念を古代のコンセプトであるムーシケmousikeギリシャ語に求めれば、まさしく音楽は大地にばらまかれた存在であった。
 「オテッロ」は革新的な作品とも評されたが、あまり当を得た表現ではない。40年以上の彼のオペラ作曲生活とのつながりで見れば、74歳のヴェルディが求め続けたことの一つであったと言えよう。

 「オテッロ」初演のオーケストラ楽員の中に20歳の第2チェロ奏者のトスカニーニToscaniniイタリア(1867-1957)がいて、ヴェルディはなぜか彼に注意が惹かれたという。またスカラ座には、世界的な知識人でうめつくされた。音楽学者ハンスリックHanslickオーストリア(1825-1904)、評論家ベレーク、パリの画家ボルディーニとオペラ座監督ゲラール、ヴィーンとプラハの劇場監督、ロンドンとベルリンの劇場支配人などなどであった。幕が降りた時は、19回のアンコールがあった。

 翌日の批評は2つに分れた。否定側はヴァーグナーの模倣と言い、肯定側は「トリスタンとイゾルデ」の作曲家が存在しなくても、ヴェルディが書き得た新時代のオペラであると評価した。




<音楽的特徴>



 「オテッロ」番号オペラとの決別であった。いわばヴァーグナーが行った通作書法を取っている。これは確かにヴァーグナーから影響受けたものであろう。それはイタリアのオペラの伝統の否定ではなく、偉大な歴史に附加されたと言った方がよい。またヴェルディはペーリ(1561-1633)以後のオペラの歴史と伝統ばかりでなく、パレストリーナマルチェッロの伝統と栄光をも継承しようとした。そのような経緯の過程ですでに弦楽四重奏曲ホ短調レクイエムを作曲した。「オテッロ」においてそれまでのイタリア・オペラに無かったような声楽と管弦楽の一体化を見せている。これが劇展開に効果を上げている。一つの幕が交響曲の一つの楽章のような構成をもっているのである。

 また従来の意味での流麗なアリアは、「オテッロ」の中にはもう存在しない。レチタティーヴォアリアに近づき、レチタティーヴォとアリアが一体化したものと言ってよい。いわば過去のレチタティーヴォとアリアの組み合わせの定型を棄て、定型によって生じる閉鎖性を解放したのである。レチタティーヴォとアリアの区別を無くすのはヴェルディの悲願だった。この試みはヴェルディの前期オペラや中期オペラにもすでに見られた。それは「ラ・トラヴィアータ(椿姫)」の第2幕第1場ヴィオレッタとジェルモンの20分に及ぶ大シエーナであった! レチタティーヴォの可能性を発展させ、ドラマの展開に大切な役目をもたせたのである。

 「オテッロ」では従来のアリアに当たる独唱曲は3箇所だけである。それは第2幕のイアーゴの「俺は残酷な神を信じているのだ Credo in Dio crudel」第3幕のオテッロの「神よ、あなたは不幸にある全ての悪を私に投げつけたのだ Dio! mi potevi scagliar tutti mali della miseria」第4幕のデズデーモナの柳の歌「寂しい荒れ野で歌いながら泣きます Piangea cantando nell'erma landa!」に続けて歌われる「アヴェ・マリア Ave Maria」である。

 「オテッロ」対話的な二重唱が圧倒的に多いオペラである。オテッロとデズデーモナの二重唱は4つ、オテッロとイアーゴの二重唱は6つもある。第3幕ではカッシオが加わって三重唱になっていくアンサンブルが不気味な対話の内容を盛り立てる。第3幕では導入から幕までデズデーモナを中心として重唱が展開されていく。オテッロに罵倒されるまでの大展開は実に絶妙である。

 第4幕オテッロとデズデーモナの二重唱は、オペラ史上最高の名二重唱と評されるものである。音楽芸術の利点が限りなく発揮され、優れた芸術が表現可能な要素を最大限に具現化した例かもしれない。この二重唱は、このドラマ全体を凝縮し、心の片隅に芽生えた疑いに始まり、これから最愛の妻を絞め殺すほどの嫉妬の鬱積を抽象している。常軌を逸した行為に走るオテッロの心の軌跡を表象した名場面となっている。自己破滅の大爆発への経緯を、巧みに描いているからである。




<物語>


物語の核心
 「オテッロ」の物語は、オテッロの嫉妬が根源である。アフリカ人男性が白人の美人妻に抱いた劣等コンプレックスに端を発し、イアーゴの策略に簡単に落ちていく。イアーゴの言葉によってオテッロは心の調和を失くし、破滅に陥っていく悲劇である。

 デズデーモナは理想化された女性として描いている。ヴェルディは耐え抜いた最初の妻マルゲリータと、彼女の死後の二度目の妻ジュゼッピーナを思い起こしたことだろう。やさしいジュゼッピーナをデズデーモナとして捉えたのかもしれない。ヴェルディは「オテッロ」を作曲中、妻を「アイーダ」以前のように部屋に呼んで、演奏し聴かせて意見を聞いたという。妻もこれによって「アイーダ」作曲時の夫とソプラノ歌手ストルツの疑惑を、遠い過去のことにできた思われるのである。

 ヴェルディは自分の多くの欠点と罪を知っていた。それゆえにオテッロの悩みと破滅に共感できた。そのため人間の真実を表現し得たと思われる。そしてヴェルディ自身も自分自身を克服できた。またこの時やっと妻ジュゼッピーナも初めて自分の使命というものを知った。自分自身の存在の大切な意味をやっと自覚できたのである。彼女こそ「オテッロ」の完成と成功を誰よりも喜んだ人であろう。

 デズデーモナの存在は、オテッロの真実を表現するために必須であった。これはもちろんシェークスピアの意図であるが、ヴェルディはこのことを深く理解した。それゆえ最高の表現を生み出すことができた。そしてヴェルディ夫妻が「オテッロ」によってより成熟し高められたことは、最高の幸せであっただろう。


 欺すより欺される方が悪い、という語句もあるが、オテッロは完全に欺されてしまったのであった。
原作:シェークスピア 1602年作
台本:アッリーゴ・ボーイト

  
《15世紀のヴェネツィア領のキプロス島
 15世紀末のヴェネツィア領のキプロス島。ヴェネツィア統治の第2期のキプロスを舞台にしている。実話としては1508年、クレタ島総督のクリストフォ・モーロが、キプロスからの帰途の船上で、妻の命を奪ったという記録が、サヌードの「日誌」にある。原作者シェークスピア(1564-1616)はこれを参考したようだ。総督はモーロという名前。モーロは色が黒いとか黒人を意味するが、実際はどうだったか分からない。苗字としてあり得るからである。日本で言えば黒川さん、黒田さんというように。シェークスピアのファンタジーを大きくかき立てたことは、想像に難くない。

 当時のヴェネツィア共和国は、海軍を自国の貴族で固めていた。シェークスピアは、故意に国際的なヴェネツィアに異国情緒をより掻き立てるために、オセローOthello
(英語)――オテッロOtello(イタリア語)――黒人moroと設定したのだろう。


第1幕



 嵐の中でトルコとヴェネツィア艦隊が戦闘を繰り広げていた。ついにヴェネツィア軍がトルコ軍を撃破した。キプロス島の民衆はことの成り行きを夜の港で見守っていたが、伝令を受けて喜びに変わった。オテッロの船がキプロスに到着したので、民衆は将軍オテッロを歓呼で迎えた。戦勝によってオテッロはキプロス島の総督となった。

 嵐も収まり、キプロスの人々は戦勝の宴を始めた。オテッロの旗手イアーゴは、オテッロが自分のライヴァルであるカッシオを副官にしたことを妬んでいた。イアーゴはオテッロの妻デズデーモナにロデリーゴが恋しているのを利用し、ロデリーゴをそそのかし酒に弱いカッシオを泥酔させる。カッシオは取り乱し、ロデリーゴと争い、止めに入ったキプロス前総督モンターノを斬りつけた。人々は大騒ぎになった。聞きつけたオテッロがやって来て、その場を鎮めた。そしてカッシオを罰として副官から解雇する。このときイアーゴは策略の第一歩を果たすことができたのであった。
 一方、愛し合うオテッロとデズデーモナ総督夫妻は、熱い接吻を交わしていた。


第2幕



 イアーゴはカッシオに近づき、デズデーモナによる取りなしを勧める。一方、オテッロには、カッシオとデズデーモナの関係に疑惑を持たせるよう吹きこむ。カッシオの願いでデズデーモナは、夫オテッロにカッシオの赦免を願うが、聞き入れられない。妻がさし出したハンカチを、夫オテッロは振り払ってしまう。イアーゴはその落ちたハンカチを、デズデーモナの侍女、つまり自分の妻エミーリアよって、うまく手に入れる。デズデーモナは、夫の態度の変化に悩む。イアーゴは罠にかかったオテッロの嫉妬の火を、さらに燃やさせる。カッシオが寝言でデズデーモナのことを言った、さらにデズデーモナのハンカチを持っているのを見たと、巧みにカッシオとデズデーモナの不実を捏造して、オテッロに告げたのであった。ますます嫉妬で逆上するオテッロである。


第3幕



 イアーゴは、オテッロにカッシオとデズデーモナの不義の証拠を見せると宣言する。一方、デズデーモナはくり返しカッシオの赦免を願うが、オテッロはイアーゴの策略通り、自分が贈ったハンカチを見せるようデズデーモナに要求するが、今は持っていないと言った。怒り狂ったオテッロにののしられて、彼女は立去って行く。一方、オテッロは絶望と苦悩で涙にむせんだ。

 そこへ策略とは知らずに謀られたカッシオは、自分の恋人ビアンカの話をし、さらに誰のか分からないハンカチを家で拾ったとイアーゴに見せる。これをイアーゴの策略通り、もの陰から見ていたオテッロはすべて妻の不貞の証拠だと思い込み、ますます逆上する。

 そこへヴェネツィア大使一行がキプロスに着き、オテッロのヴェネツィアへの帰国命令と総督後任としてカッシオの昇格を報じた。怒り狂うオテッロは、人々の前で妻デズデーモナを罵倒して人々を驚かせてしまう。


第4幕 デズデーモナの寝室



 デズデーモナは、侍女エミーリアに就寝の準備を手伝わせている。彼女はなにかしら死の予感に駈られ、昔聴いた「柳の歌」を歌い、「聖母への祈り Ave Maria」を捧げる。そのときオテッロが現れた。一方的に妻の不貞を責める夫に対して妻は無実を訴えた。だがオテッロは聞き入れず、彼女の首を締めてしまう。彼女の絶命寸前に、侍女エミーリアが駆け込んで来て、カッシオがロデリーゴを返り討ちしたことを告げる。その時、デズデーモナは、虫の息で自分の潔白をエミーリアに告げた。その声を聞いたオテッロは、自分が不貞の妻を殺したことを侍女エミーリアに告げる。騒ぐエミーリアの声で人々が集る中、エミーリアはイアーゴの策略をすべて語ったのである。やって来たキプロス前総督モンターノがロデリーゴが息をひき取る前に、イアーゴの策略をすべて白状した、と述べたのであった。今やすべてのイアーゴのからくりが暴かれたのである。全真相を知ったオテッロは自刀し、妻に最後の接吻をして命を果てた。




[参考スコア]

Giuseppe Verdi; Otello[P.R.155], RICORDI OPERA FULL SCORE SERIES, Milano





参考ディスク 発売:2008/10/22

BD KIXM125 「オテッロ」

リッカルド・ムーティ指揮、スティーヴン・ラングリッジ演出
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 &ウィーン国立劇場合唱団・ザルツブルク音楽祭児童合唱団

オテッロ
デズデモーナ
イアーゴ
カッシオ

エミーリア
ロデリーゴ
ロドヴィーコ
モンター
伝令
アレクサンドル・アントネンコ(T)
マリーナ・ボフラフスカタ(S)
カルロス・アルバレス(Br)
スティーヴン・コステロ(T)
バルバラ・ディ・カストリ(Ms)
アントネッロ・チェロン(T)
ミハイル・ベトレンコ(Bs)
シモーネ・デル・サヴィオ(Br)
アンドレア・ポルタ(Bs)

収録:2008年8月5〜10日祝祭大劇場ザルツブルク  発売:2013/7/24


DVD TDBA0030 発売2003/9/3

リッカルド・ムーティ指揮、グレアム・ヴィック演出
ミラノ・スカラ座管弦楽団・合唱団

オテッロ
イアーゴ
カッシオ
ロデリーゴ
ロドヴィーコ
モンターノ
使者
デズデーモナ

エミーリア
プラシド・ドミンゴ(T)
レオ・ヌッチ(Br)
チェザーレ・カターニ(T)
アントネッロ・チェロン(T)
ージョヴァンニ・バッティスタパローディ(Bs)
チェザーレ・ラーナ(Bs)
エルネスト・パナリエッロー(Bs)
キバルバラ・フリットリ(S)
ロッサーナ・ラーナ

収録:2001/12/18・20ミラノ、スカラ座ライヴ


DVD PIBC-2020 発売2001/10/25

ショルティ指揮、モシンスキー演出
コヴェント・ガーデン王立歌劇場管弦楽団、合唱団

オテッロ
イアーゴ
カッシオ
ロデリーゴ
ロドヴィーコ
モンターノ
使者
デズデーモナ
エミーリア
プラシド・ドミンゴ(T)
セルゲイ・レイフェルカス(Br)
ロビン・レガーテ(T)
ラモン・レメディオス(T)
マーク・ビーズリー(Bs)
ロデリック・アール(Bs)
クリストファー・ラックナー(Bs)
キリ・テ・カナワ(S)
クレア・ポウエル(Ms)

収録:1992年コヴェント・ガーデン王立歌劇場



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