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制作者：国本静三

わが指針

オペラ「アグリッピーナ Agrippina HWV6」

　ゲオルク･フリードリヒ･ヘンデルGeorg Friedrich Händel^{ドイツ→イギリス}（1685-1759）

＜作曲経緯＞


　ヘンデルHändel^{ドイツ→イギリス}（1685-1759）は、1706年秋、突然ドイツからイタリアへ向かった。1710年１月か２月頃までの約３年半がヘンデルのイタリア時代となる。1709年11月末か12月初め頃、ナポリを去ってローマ経由で再びヴェネツィアに向った。ステッファニSteffani^イタリア（1654-1728）と連れだって行ったらしい。ヘンデルに大きな影響を与えたこのステッファニーニとは、ローマである枢機卿の館で出会った。彼は作曲家･司祭･外交官でハノーファー公に仕え、ハノーファのオペラ劇場の楽長であった。丁度、教皇と皇帝の関係を調停するためにローマに滞在していたのである。イタリア人の彼は、イタリア音楽とドイツ音楽の中間的様式を有していたためヘンデルにはたいへん興味があり、またたいへん参考になる存在であった。またヘンデルに重大な影響を及ぼした人物であった。ステッファニは歌曲作品に優れ、特に二重唱の彼の作風は、テレマン、バッハまでにもその影響は及んでいる。

　ヘンデルのイタリア語オペラ「アグリッピーナ」の作曲の経緯は明確ではない。ヴェネツィアにこのオペラを事前に作曲して携えて行ったのか、あるいはヴェネツィアに着いてから作曲依頼を受けて作曲したかは不明である。

　イタリアでのヘンデルの活躍は、独唱カンタータ「おお、永遠の神々（ルクレツィア）HWV145」（1706-07年作曲）に始まりオペラ「アグリッピーナ HWV6」に終わる。ヘンデルの野望は驚くべきもので、イタリアではどっぷりカトリック教会とその関係者を背景に活動したのであった。このような活躍は、高位聖職たちをパトロンにしないことには考えられないことであり、またカトリックに改宗しないことには受け入れられないような身の振り方にも驚きである。たしかにこの時期に作曲されたヘンデルの教会音楽は、すべてカトリック教会用の音楽であった。

　ヴェネツィアでヘンデルは、ハノーファーの貴族たちにも出会った。彼らにハノーファー行きを勧められる。さらにハノーファー宮廷楽長であったイタリア人ステッファニも、この地位をヘンデルに提供した。1710年２月頃イタリアを去ってハノーファーに行くことになるのはこのためである。この事態は、ヘンデルにとってもステッファニにとってもどうのような背景があったのかは、未だに不明なことであった。

＜台本＞


　「アグリッピーナ」のオペラの台本は、ヘンデルがナポリで愛顧を得ていたナポリの総督ヴィチェンツォ･グリマーニ枢機卿が書いた。当時のヴェネツィアは未だヴェネツィ共和国（697-1797）であったが、すでにオーストリアのハプスブルク家の支配下にあり、共和国としては終焉寸前の最終世紀を迎えていた。台本を書いたグリマーニはヴェネツィアの名門貴族の一族であり、ハプスブルク家から大きな信頼を得ていた人物であった。1707年ローマで枢機卿になったのも、翌1708年にナポリの副王=総督になったのもそのためであった。オペラ「アグリッピーナ」初演となるジョヴァンニ･グリゾストモ劇場（1677年12月開場､ヴェネツィア）は、グリマーニの一族が所有する劇場でもあった。こうして台本はじめ、劇場と上演のためのすべての手はずを、グリマーニ枢機卿はヘンデルに提供し、成功のお膳立てを整えたのであった。

　台本作成に当たってグリマーニは、タキトゥス（c.55-c.120）の「年代記Annales」^１）やスエトニウス（c.70-c.140）の「皇帝伝De Vita Caesarum」を参考にしたと思われる。台本と史実は大きな違いをもっている。台本はクラウディウスに世継ぎの息子がいないとし、アグリッピーナの連れ子ネロの最初の妻である皇帝の娘オクタヴィアも存在していないこととしている。これによってオペラに登場する人間関係を単純化し、劇的効果を上げたのであった。

　台本で興味ある点は単に歴史物語とせず、当時の政治情勢と皇帝に絡む人間関係を映し出している点である。当時、スペインの王座が1700年に空位になり、そこへフランスのブルボン家が王を送った。オーストリアがフランス勢力拡大を懸念し、王の継承権を主張したので戦争となった――スペイン継承戦争（1701-14）。この時イタリアは北部も南部もスペインの支配下にあったため、オーストリア軍がそのどちらにも攻め込んだ。このためイタリア半島が戦場となったのである。南北の戦場に位置するローマならび教皇領では教皇クレメンスClemensXI（1649-1721、在位1700-1721）が、スペイン側に付きながらも優柔不断な態度を見せていた。オーストリア側は不満を爆発させ、軍が実効支配をし、スペインに代わってハプスブルク家が支配することになった。そうした世情の批判を「アグリッピーナ」に反映させて、ローマ皇帝クラウディウスClaudius（BC10-AD54､在位AD41-54）を描いている。よく知られた史話としていただけでなく、時代的センスに満ちた要素を加えたことも大当たりした理由の一つであろう。これが当時の観衆の心を捉えたようである。このオペラが世を映し、世論を反映したメディアの役割を果たしたことも分かるのである。

　とはいえ、あくまでも楽しめる娯楽性をも有した台本とし、史実とは大きく異なる台本となっている。物語の展開と人物描写の明快性は抜群である。オットーネを除いて各人物に負の面をもたせ、本音と建て前を交えた重層的な人間の野望が表現されている。アグリッピーナも史実では悪女とされているが、このオペラでは息子に思いを寄せる母性が強く描かれている。


［注］


^１）　タキトゥス（國原吉之助）／年代記･上下／岩波文庫　1981年刊

＜初演＞


　イタリア･オペラ「アグリッピーナAgippina HWV6」（1709年作曲、初演ヴェネツィア）の初演の日付は不明である。サン･ジョヴァンニ･グリゾストモ劇場で1709年12月26日から1710年のカーニヴァル･シーズンかけて（教会の復活祭に合わせたカーニヴァルは、移動するシーズンである。年末年始にはやってこないが、ヴェネツィア独特の習慣で降誕祭以後から四旬節が始まる灰の水曜日まで行われた。）の上演だったと思われる。あるいは1710年１月以降の上演だったのかもしれない。どちらにしても大成功で、外国人=ドイツ人作曲家がこんなに喝采を受けることは当時としては驚くべきことであった。興奮した聴衆は場面毎に“愛すべきザクセン人万歳！=Viva il caro Sassone!”と叫び、ドイツ人ヘンデルを称えたという。劇場は異常な熱気に包まれたらしい。全部で27回の上演となった。音楽家はイタリア人に限るという時代だったのに、外国人がこんなに優れた作曲ができるとは驚きだ、というのが聴衆の意見であったのかもしれない。ヴェネツィアでのこの熱狂は全ヨーロッパに広がることを意味していた。ヴェネツィアは当時イタリアのオペラの中心地ばかりでなく、万事において全ヨーロッパに向けて発信する国際的都市（当時は共和国！）であった。それはヘンデルが大作曲家として世に知れ渡ることを意味し、絵に描いたような運のつき方だった、と言える。

＜音楽の特徴＞


　オペラ「アグリッピーナ」は、ヘンデルがイタリアで習得した音楽の集大成となった。このオペラが構成される約50曲のうち90％はイタリアで作曲したものばかりである。この時イタリアで培い作曲したものが、後にロンドンで作曲するオペラやオラトリオにおいて素材として用い、転用されることになるのである。とびっきり優れ、力ある音楽と力動的な表現が明確に発揮され、後々のヘンデルの作品の源泉となったのである。

　ヘンデルや他の作曲家のオペラも同様であるが、当時はダ･カーポ形式のアリアが圧倒的に多い。それらは前半３分の１が反復されるので、緩慢さを生むことは否めないものであった。オペラ「アグリッピーナ」では、もちろんダ・カーポ･アリアも含まれているが、ダ･カーポ形式を取らないアリエッタやアリオーゾ、短い重唱や合唱が、レチタティーヴォ･アコンパニャートや、管弦楽のみのフレーズや前奏曲などにも多様性をもたせるために用いられている。レチタティーヴォ･セッコも適材適所に効果的に使われている。それは第３幕のポッペアの部屋の場面やアグリッピーナの潔白を主張する場面などで用いられている。時間的にも短く切りつめたレチタティーヴォ･セッコは緊張感を生み、劇的効果を高めている。このオペラはヘンデル全作品中でも異色を放つ作品となっている。

＜物語の史実＞


　この項では人物名を史実に基づき、ローマ帝国下での公用語ラテン語表記とする。オペラでは登場人物の名は、オペラ台本では下記に記したようにイタリア語化されている。この人物はすべて西暦50年頃に実在した人物であった。

　第４代ローマ皇帝クラウディウスClaudius（BC10-AD54､在位AD41-54）は、アグリッピナ（15-59）には伯父に当たる。彼女は第３代皇帝カリグラの妻となり、伯父であるクラウディウスの４番目の妻ともなる。クラウディウスは生まれつきの身体的障害や吃音などをもち、長年歴史の表舞台に立たなかった。歴史家としてエトルリア史やカルタゴ史などの著述をした。カリグラ帝の執政官なり、元老院に加えられた。カリグラ帝が暗殺された後に皇帝となったのである。元老院の承認を受けたが、実質的には親衛隊の軍事力によって支えられていた。これ以後、軍事力がローマ皇帝の存在を決定的にする最初の例となる。クラウディスは知性と教養に富んだ政策を進め、真面目に政務に取り組み、ユダヤの統治問題などを解決した。ローマ市民の不興を買った先々帝ティベリウス、財政危機を招いた先帝カリグラを反面教師として、中庸的な政策を行った。元老院たちとは関わりをもっていなかったので、カエサル家の解放奴隷を積極的に登用した。これは非元老院議員の統治への関与、そして皇帝の権力集中や官僚制の発達をもたらすことになった。さらにブリタニカ遠征の成功など彼の治世はよい時代だったといえる。毒キノコによって死ぬが、妻アグリッピナの暗殺とする説が古くからある。

　四度目の妻アグリッピナは、前々夫アエノバルブスとの間にネロ（37-68）をもうけていた。息子ネロを溺愛する彼女は、何とかして皇帝の座に据える画策をする。クラウディウスには先妻の皇妃メッサリナ（20-48）との間に娘オクタヴィアと息子ブリタンニクスがいた。アグリッピナは53年に皇帝クラウディスの先妻の娘オクタヴィア（c.40-62）と自分の息子ネロと強引に結婚させ、ネロをクラウディウスの養子とした。こうして順次嫡子ブリンタンニクスより優位な立場に据える。その約１年後の54年10月13日、皇帝は好物のキノコを食べた後、急死する。

　16歳のネロは皇帝になり、当初は善政を行う。それはネロ皇帝の師でもあった哲学者セネカ（c.BC1-AD65）によるところが大きい。初めは影響力をもっていた母も、次第に母子の対立を深めていく。そのためアグリッピナは皇帝の実子ブリタンニクスを引き立てたので、ネロの怒りを買い、55年に暗殺されてしまう。

　ネロは、友人オト（32-69）の妻ポッパエア（30-65）に恋をし、58年に二人を離婚させ、オトをルシタニア（現ポルトガル）の総督として派遣する。ネロが母を暗殺したのはこの離婚を許さなかったからともいわれている。ネロは妻オクタヴィアの不妊を理由に離婚し、ポッパエアと再婚した。62年にはポッパエアの意向でオクタヴィアを処刑する。65年ポッパエアも急死する。この頃ローマ火災の原因をキリスト教徒になすりつけて迫害し、さらにセネカを自死させた。68年、属州で反乱が起こり、ネロは元老院からも見放される。30歳で自害した。

　次いで皇帝になったオト（32-69､在位69･1/25-4/15）はエトルリア系の出身で、貴族階級に属したが、執政官を出したのはオトの父ルキウス･オトからであった。オトは皇帝ネロの第一の親友で、同性愛関係があったともいわれる。ルシタニア総督として真面目に仕事に打ち込み、善政を敷き、名総督として属州民に人気もあった。オトは第７代皇帝となっても在位期間はわずか３ヶ月間であった。治世末期にゲルマニアで叛乱した将軍ヴィテリウスが兵を挙げてローマ軍に迫り、クレモナ近くでオトの軍を破った。敗戦の報を受けたオトは自殺した。

＜物語＞

　ローマ皇帝クラウディオの皇妃アグリッピーナに、皇帝が海で遭難したとの知らせが届く。先ずアグリッピーナは溺愛する前々夫との子ネローネ（連れ子ネロ）を次期皇帝に継がせることを考える。皇帝の側近パッランテとナルチーゾに協力を求めた。ネローネもカンピドーリオ広場で市民に施しをしたり、人気取りを始めていた。その時、なんと皇帝の無事帰還が知らされる。忠臣オットーネによって皇帝クラウディオが間一髪で救出された、と報告を受けたのである。その功績によりオットーネは、皇帝の座を約束されとも伝えられた。アグリッピーナは悔しがるが、一足先に戻ったオットーネは皇帝の座よりポッペアとの愛を得たいと述べた。これを聞いたアグリッピーナは大喜びし、オットーネにあなたこそ皇帝の座にふさわしい人物だ、とうそぶくのであった。

　皇帝がポッペアを愛していることを知っているアグリッピーナは、小細工を始める。ポッペアにわざと次のことを告げる。オットーネは皇帝になりたがっている。そのためにポッペアを皇帝クラウディオに譲るつもりでいる、と伝えたのであった。これを聞いたオットーネを愛するポッペアは、オットーネに裏切られたと思い込んでしまい、嘆き怒るのであった。さらにアグリッピーナは、もう一つの策略を企てる。ポッペアと愛し合うオットーネに対する夫クラウディオの嫉妬を利用したのであった。なんと夫には、オットーネが愛の裏切り者として皇帝に復讐しようとしている、と告げたのである。一方、アグリッピーナに欺され、信じてしまったポッペアは、オットーネを懲らしめてくれるよう皇帝に直談判した。

　さて、宮殿では皇帝の凱旋祝賀会が開かれていた。忠臣オットーネは、帝位の約束を取り下げるよう皇帝に願い出る。すると皇帝とその臣下たちは、非難をオットーネに浴びせかけた。彼には訳が解らなく、ただただ絶望に陥いる。

　ポッペアは、やって来たオットーネから色々言い分を聞いた。今までのことはアグリッピーナの策略とやっと気づいたのであった。そしてポッペアはアグリッピーナの息子ネローネを策略に落とし入れるために、皇帝を自分の部屋に呼び寄せることを企てた。

　一方、不安が晴れないアグリピーナは、パッランテとナルチーゾにさらに陰謀の手助けを求めて働きかけた。そして彼女はさらにクラウディオ帝にすぐに義理の息子ネローネを皇帝にするよう、無理やりに約束させてしまうのであった。喜びいっぱいになるネローネの母アグリッピーナだった。

　ポッペアは部屋にオットーネを呼び寄せていた。ポッペアは人の気配を感じ取り、彼を物陰に隠した。そこへ来たのは自分に好意をもつネローネだった。さららに人が来た気配がしたのでネローネを別の所に隠す。やって来たのはなんと皇帝クラウディオだった。その時、彼女が懲らしめたいのはオットーネでなく、自分に言いよるネローネだった、と皇帝に語るのであった。その証拠として隠しておいたネローネを引き出した。クラウディオは激怒し、ネローネは逃げ出して行く。ポッペアはクラウディオをうまく彼女の部屋から去らせ、隠れていたオットーネと作戦成功と喜び合う。

　ネローネは母アグリピーナに泣きすがるが、逆に軽率な行動を取ったと叱られる。一方、皇帝の側近パッランテとナルチーゾは、アグリピーナがネローネを皇帝にしようとしている、と皇帝クラウディオにばらしてしまう。皇帝クラウディオはアグリピーナを非難するが、彼女はうまく白を切るのであった。関係者が集められ、クラウディオは、ポッペアとネローネを結婚させる、そしてオットーネは皇帝にする、と宣言する。オットーネは皇帝に帝位よりポッペアとの結婚をと訴え出た。またネローネも結婚より帝位と願った。ついに皇帝クラウディオはネローネが皇帝、ポッペアとオットーネは結婚することを決定し命じたのであった。わが息子ネローネの皇帝決定にアグリッピーナは大喜び。クラウディオのみが何やら浮かぬ顔であった。それは皇帝クラウディオがポッペアにぞっこんであったからである。そこで皇帝クラウディオは知恵を絞り、新しいコローニアをアグリッピーナと名付け、恋敵オットーネをそのコローニア･アグリピーナ(現ドイツのケルン）に単身任務を申し渡した、アグリッピーナと引き離してしまったのである。クラウディオはポッペアへの愛のため、うれしさを隠せないのであったが、さてどうなるか････。

［参考ディスク］　

ＤＶＤ　ＴＤＢＡ３００１ 発売：2007/4/25
ヘンデル　オペラ「アグリッピーナHWV6」

ジャン=クロード･マルゴワール指揮､フレデリック･スバック演出
ラ･グランド･エキュリー･エ･ラ･シャンブル･デュ･ロワ（王室大厩舎･王宮付楽団）

★　ヘンデルの作品　バッハとヘンデルの年譜

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