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メンデルスゾーンの生涯と作品
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ヤコブ・ルートヴィヒ・フェリックス・メンデルスゾーン=バルトルディJakob Ludwig Felix Mendelssohn-Bartholdyドイツ(1809-47)
<生涯>
メンデルスゾーンMendelssohnドイツ(1809-47)はユダヤ系ドイツ人であった。彼のフルネームはヤコブ・ルートヴィヒ・フェリックス・メンデルスゾーン=バルトルディJakob Ludwig Felix Mendelssohn-Bartholdy。最後のBartholdyはユダヤ教からキリスト教徒に改宗した時、姓=Mendelssohnに附記された。伯父の姓がバルトルディBartholdyだったので、メンデルスゾーン家がこの家系の姓を受けたとも推論されている。さらにこの伯父がすでにルター派のキリスト教徒であったと考えられている。
メンデルスゾーンは38年の短い生涯ながら多作で密度の濃い作品を残したロマン派(1820-1900)の作曲家である。ヴィーン古典派様式を受け継いだ穏和な作風をもっている。19世紀の当時、ヴィーンは音楽の中心都市であった。メンデルスゾーンは主に北ドイツ中心に活動し、敢えて言えばドイツ・ロマン派に分類されるだろう。
さて、メンデルスゾーンは、1809年2月3日ハンブルクで生まれた。富裕な銀行家、父アブラハム・メンデルスゾーンと母レア・ザロモンの息子で、祖父モーゼス・メンデルスゾーンは、カントにも影響を残した独学で果たした哲学者であった。メンデルスゾーン一家は、父アブラハムの代でルター派キリスト教に改宗する。父はまず子供たちを1816年3月に受洗させた。メンデルスゾーン7歳、姉ファニーは11歳、6年後の1822年に父アブラハムと母レアも洗礼を受けた。
メンデルスゾーン姉弟は幼少より音楽、一般教養、語学など恵まれた教育を受けた。そのためか音楽はじめ多数の言語もでき、青年になる頃にはラテン語、イタリア語、フランス語、英語が堪能だったという。
メンデルスゾーン家は1812年以降ベルリンに居を構え、当時としては有数のサロンを自宅で開いていた。姉ファニーはピアニストであり、女性作曲家の先駆者でもあった。彼女は、ユダヤ系ゆえに迫害を矢面に受けた弟メンデルスゾーンの強い心の支えであった。メンデルスゾーンは9歳でピアノ公開演奏会を行った。1819年カール・フリードリヒ・ツェルターCarl Friedrich Zelter(1758-1832)が指揮者を務めていたベルリン・ジングアカデミー合唱団に入団し、同時に作曲も始めた。1821年メンデルスゾーンはツェルターに連れられて、ツェルターの友人であるゲーテを訪問する。この時よりゲーテとの交際はこの文豪の死まで続いた。1825年には父とパリへ行き、ケルビーニ、マイヤベーア、ロッシーニなどと知り合った。
1829年(20歳)メンデルスゾーンは、バッハの死後初めて「マタイ受難曲」を指揮上演した。忘れられていたこの作品の真価を世に示し、当時の音楽界に大きな刺激を与えた。これを受けもった合唱団はツェルターが指揮をするジング・アカデミーで、ツェルターの大きな協力があった。また同年にピアニスト、モシュレスの招きでロンドンへ行き、その後も合わせて10回もイギリス訪問をしている。1830-31年イタリア、1832年パリへ旅し、ベルリオーズ、リスト、ショパンと出会っている。1835年ライプツィヒ、ゲヴァントハウス管弦楽団指揮者に就任し、1843年にはライプツィヒ音楽学校を創立した。
反ユダヤ主義のヴァーグナーは、強くメンデルスゾーンを嫌ったという。音楽的な問題ではなく、感情的な嫌悪に基づいていると思われる。ヴァーグナーの1850年以後の音楽論の殆どがこの反ユダヤの考えが盛り込まれているからである。メンデルスゾーンもユダヤ問題には常に心を痛め、さらにキリスト教徒になったことに対する批判と不理解も受けた。そうしたとき逆にユダヤ教徒に戻ろうかと真剣に考えたと言われている。ヴァーグナーが匿名で発表した短い論文「音楽におけるユダヤ性」を契機に、反ユダヤ的な彼の考えが現れてくる。1870年頃よりドイツではユダヤ排斥が盛んになるが、ヴァーグナーはそうした活動を実際にはしなかったが、「音楽におけるユダヤ性」は予言的な論文となったと言えよう。不思議なことにそれまではヴァーグナーに反ユダヤ傾向はなく、むしろ多くのユダヤ音楽家や文化人と協力的に仕事もしていた――ex.マイヤベーア、ハイネ、レールス、リストの弟子タウジヒ、ピアニストのルービンスタイン、歌手のノイマン、指揮のレーヴィなど――。ユダヤ・ドイツ人の作曲家マイヤベーアMeyerbeerドイツ(1791-1864)に対する逆恨みから端を発し、ユダヤ・ドイツ人のメンデルスゾーンをも鋭く非難した。ヴァーグナー自身の出生の疑惑が、ヴァーグナーの深層的トラウマとなっていたのかもとも考えられている。このことを含めてヴァーグナーのそうした深因について検討すべき点は多いだろう。ちなみに後のことだがナチ政権時代には、ドイツの歴史からメンデルスゾーンの名が抹消された時期もあった。このことはすべてのユダヤ系有名人に及んだのであった。
作曲家以外のメンデルゾーンの最も重要な功績は、それまで確立していなかった指揮者という職務を自立させたことであろう。自らも指揮者としての範を示した。弟子たちにも指揮法を教え、指揮法確立の創始者であったとも言える。さらに当時、既に忘れ去られていた感のあるバッハ作品の楽譜を自ら発掘してその価値を見抜き、また演奏困難などの理由で早くも敬遠されつつあったベートーヴェンの作品をこよなく愛し、これらの作品を好んで積極的にパイプオルガン、ピアノないしオーケストラの曲目として取り上げ続け、貴族にも大衆にもバッハやベートーヴェンの真価を広めた功績があげられる。これが可能にしたのは、彼がすぐれた演奏家であったことにもよる。
1847年11月4日、かねて体調の思わしくなかったメンデルスゾーンは、くも膜下出血と思われる症状によって、突然急逝する。享年38歳であった。
<作品>
メンデルスゾーンはその作品数は多く、巾広い分野にわたる作品を残した。教会音楽、オラトリオ3つ、オルガン曲、交響曲5つなど。舞台作品中でも未完成に終わったオペラ「ローレライ」3幕(1847年作曲未完)は惜しまれている。作曲における早熟の天才は、すぐれた文化芸術などのすぐれた教育を幼少の時より受けて育まれていた。みごとに才能による成果を作品として結実した。満ち足りた者のみが知り得るような充足感と、ほのかな憂いを含む彼の音の世界は、誰もが真似できるものではない。そして彼の音楽の仕事は金銭に基づかなくても、無欲に果たしていく人であった。
彼の作曲書法は古典主義的な理念に基づいたものであるが、明らかにロマン派の音楽家である。古典的形式の均整美を基にロマン派の理念が花ひらいている。形式に対する繊細な思いと和声と旋律が調和している。また管弦楽におけるその書法は新鮮で色彩豊かなものである。「夏の夜の夢 演奏会用序曲Op.21」(1826年作曲)に始まり、すぐれた書法を示し続けた。また室内楽に見せる形式美、ピアノ作品に見せるてらいのない才知と豊かな表現は、追従をゆるさないものと言えよう。
2006-2026
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